もう15年も前に京都の相国寺で開催されていた若冲展を訪れた。
名高い「動植綵絵」の掛け軸が並ぶ中、ひとつだけ、貼り絵の作品が展示されていた。
この作品「双鶏図」(貼り絵)には二羽の鶏が描かれており「動植綵絵/大鶏雌雄図」(軸装の彩色画)に対応している。同じ鶏が描かれていることは何ら問題無いのだが、両者の描写には著しい違和感があった。
天才的なデッサン力のある若冲の絵にしては、写実力が著しく低く、到底若冲本人の手によるものとは思えなかったのだ。
さらに確かなデッサン力に裏打ちされた他の若冲作品からは、若冲の生きた時代の空気感や、彼が筆を運ぶ息遣いまでも伝える迫力がある。これに対し、その貼り絵は、デッサンが崩れ、鶏の頭は首からずれ、尾羽も羽の付け根が定まらずバラバラな感じがする。何より、羽一枚一枚にあの独特の勢いがまるで感じられなかった。あまりの違和感に、私は会場にいた学芸員に思わず尋ねた。
まず、この作品が掛け軸「動植彩絵」と同時期に制作されたものかを問うたところ、学芸員は「同時期です」と答えた。
続いて、若冲が当時病気などで筆力が落ちていた可能性を尋ねたが、「そのような記録は存在しない」とのことだった。
さらに、展示されている作品が全て真作であるかと再確認したところ、「東京大学名誉教授辻惟雄先生と文化庁が太鼓判を押した真作である」と明言したが、この疑問に対し、学芸員は明確な説明を行わず、「そう言われたら、、、」と答えるのみだったのだ。
帰宅後、師匠はじめ陶芸家の友人、大学で博物館学を教える友人に写真を見せ、意見を求めた。
いずれも「これは別人の手によるもの」と即答。また、「権威ある立場にある者は、たとえ誤りに気づいても絶対認めない」との助言を受け、そんなものなのかと思い、この問題については忘れることにした。
しかしながら、15年の年月を経た現在に至っても、あのとき感じた忘れたつもりの小さな違和感は、喉に刺さった魚の小骨のように気になる。
私なりに考えていたのは、あの作品は、若冲先生を敬する相国寺の雲水か寺院関係者が「ここの壁にも若冲先生の絵があればいいな」と思い、しかし先生にそんな依頼をするわけにもいかず、他の若冲作品を真似て、自分たちで一生懸命描いたものなのではないか。
この作品には、贋作にありがちな狡さや悪意がまったく感じられないのだ。むしろ若冲を慕う純粋な一生懸命さが伝わってくる。微笑ましくさえあるのだ。
小骨は気にはなるが、しかし、この作品を見ていると、権威の「真贋判定」がどうであれ作品が200年の時を超え、現代にあって何を伝えるのかと考えてしまう。
私は、いつの時代にもあるであろう、真贋の狭間のような細部に見え隠れする「素朴な人間らしさ」こそが、21世紀の現代において私たちの目の前にある、あの一枚の作品が放つ真実の静かな魅力なのかもしれないとの思いに至るのだ。
ちゃんとした「権威」なら信じたいのはやまやまなのだが、この一連の出来事から一作品の真贋の問題よりもっと大切な見過ごせない問題がどうしても透けて見えてくるように思う。
それは、私たちが無意識のうちに寄りかかろうとする「権威」というものの危うさだ。美術の世界だけでなく身近な社会にもこの危うさはいたるところにある。強固な肩書きによって保証された「真実」も、必ずしも絶対ではない。人間の判断は時に誤りうるものであり、また一度認めた評価を覆すことは、権威の立場にある者ほど困難なことなのだろう。このため、たとえ誰が認定したものであれ、私たちは常に自らの目と感性を信じ、疑う心を失ってはならないということの重要性を思うのだ。
本物の美には、大学教授であろうと一般人であろうと、職業、国籍、世代すべての壁を取り払って、人間レベルで平等に感動させる力があるのだから。綺麗な桜や紅葉の景色を前にした時、様々なお国の様々なインバウンドの人たちが同じ景色に一斉にスマホを掲げるように。

「動植綵絵」大鶏雌雄図

貼り絵